Ceramic Artist Toshio Ohi Blog
INDEX
一昨年の1月31日未明、ロサンゼルスの自宅で病の妹は亡くなった。
今は東京・中野にあるお寺で安眠しているが、明年は3回忌となる。
時期は多少早いのだが、妹家族の帰国に合わせての法要となった。
嫁ぎ先の親族、両親や弟、妹の友人達、
妹の娘と私の娘、同じ歳でもあり姉妹のように育ってきた。
妹の娘は本当に母親に似てきた。妹の遺伝子がたくさんあるからだ。
皆が再会を喜び、手を合わせた。
駆け足のような妹の人生だった。
今日は妹も嬉しかったに違いない。
冬とは思えない温かく穏やかな日だった。
高円宮妃久子殿下の「鳥の写真」展が金沢・北國新聞社赤羽ホールで開かれた。
その前には記念RECEPTIONがあり、北國新聞社のはからいで有難くも中央最前列に案内されたのだが、
周囲はVIPばかりで戸惑ってしまった。
本年4月、日本橋髙島屋での個展にお成り頂いているので、
「機会があれば必ずお礼を述べさせて頂かねば!」と願いながら座った。
そして、参加者全員が緊張のなかで妃殿下のご到着を待つ。
13:30。 SPに囲まれ妃殿下がRECEPTION会場にお成りになられた。
私の前を通過される際にご挨拶を賜った。とても光栄なことだ。
北國新聞社社長 飛田秀一氏の挨拶があって妃殿下の功績を語られた。
そして妃殿下のご挨拶があった。憲仁殿下は世界中を妃殿下と旅をされながら多くの撮影をされた。
その記録を残す事が妃殿下の役目だったそうだ。時間が経ち残された殿下のカメラで妃殿下が写真を撮り始められた。
それが今回の「鳥の写真」展となったそうだ。直接、殿下から写真のことは以前にお話を伺ったことがあり、
妃殿下のお心がよく理解することができた。
そして開場となったのだが
日本や海外で撮影されたすばらしい「鳥の写真」だった。
自然と鳥が共生する魅力的な作品なのだが、どこかに環境保護を憂いでおられかのような想いが伝わってくる。
妃殿下のお心がはっきりと作品に現れていた。
憲仁殿下が崩御される数週間前、殿下は金沢に滞在されていた。数人が招かれ私もその一人だったのだが、
朝方まで楽しい時間を過ごさせて頂いた。それから間もなく悲報があり、私は宮家へ急行した。
お休みになられた殿下の寝室まで通して頂きお別れさせて頂いたのだが、本当に残念で不幸な出来事だった。
妃殿下のこの写真展、殿下の想いでもあると思う。心にしみる展覧会だった。
金沢大学学長 中村信一先生とともに、長く留学生に教えていることに感謝して頂いた
留学生達が集まった。金沢大学はこれから10年計画で今の3倍の留学生受け入れを目指している
以前、経済学部で「工芸都市論」として何度かゼミを行ったことがあるのだが、
金沢大学の留学生を対象に非常勤講師として10年間、務めさせて頂いている。
総てを英語で教えなければならないので、当初、英語を私自身が忘れないためにもいい機会でもあると考えたのであるが、、、、
実は簡単ではなかった。
金沢大学のキャンパスで行う授業はこれまで「家元制度」「茶道と工芸の関わり」
「茶道と仏教、神道」「前田家と茶道、工芸」「温故知新/温新知故」など様々だ。
理解できていることを英語で考え、また日本語にする。この作業は、難解なことを簡潔に整理しながら、
更に深く事柄を知っていくことにもなるので私自身が学習をすることができてきた。
また、日本や金沢にいることで疑問に思ったことを解決せずに通り過ぎてきたことが多々あることにも気付く。
「床の間」「つくばい」「袱紗さばき」「路地」様々に私が子供の頃から聞きたくても忘れてしまった事柄が留学生から質問を受ける。
昔聞いた事だが、“教えることは学ぶことでもある”それを実感している。
私の工房で陶芸制作をする講座もある。毎年6回の授業を行うのだが、
1回目は大樋美術館と茶室で「茶道」や「工芸」を講義する。
2回目は制作、3回目は仕上げ、4回目は施釉、5回目は窯炊、6回目は皆の作品を展覧会として陳列してギャラリートークをする。
人気の講座なので毎年30人ぐらいが受講してくるので、すでに300人以上の留学生に教えたことになる。
ニューヨークなどで個展をすると受講したことがある生徒と再会するなど、嬉しい出会いの積み重ねをしてきたと思う。
この懇談会は留学生と講師とのふれあいが目的なのだが、関わる人々の多さにあらためて驚かされた。
総てに理解があっての事業であることを再認識した時間でもあった。
飯倉からの東京タワー
レセプション会場での燦々会メンバーとともに
18:30よりレセプションが開かれた。東京タワーは子供の頃に何度か訪れて登ったことがあり、
記念メダルに日時を打ち込んだ記憶もある。50周年ということは私と同じ歳ということにもなる。
燦々会という集まりがある。政財界、芸術界などの仲間で構成されていて25年ぐらい前から年に数度、
京都や東京で情報交換をしてきた。各ジャンルにおいて皆が今最も活躍している時期なのかもしれない。
大企業のオーナー、官僚、国会議員、芸術家など実に多彩なメンバーだ。
最初に声をかけたのは月桂冠社長 大倉忠彦氏と今は亡き裏千家 伊住政和氏だった。
その時から私もメンバーに加えて頂き、大倉氏はずっとリーダーを務めて下さっている。
そのメンバーもなんと26人も招待されていて、皆が50歳。東京タワーも50歳ということで感無量であった。
「50」と刻まれた東京タワーのイルミネーション。
この間に日本は様々な経験をしてきた。
大きな夢を抱いた人がそれを実現させたことで東京、日本のシンボルとしてその役目を果たしてきた。
今一度、大きな夢を抱きそれに向かって挑戦していくことが皆に求められているのかもしれない。
日本電波塔株式会社が東京タワーの正式名称だ。その社長を務める前田伸氏のように、
時代にあった継承を大きな夢の中で挑戦されている姿は尊敬に値する。
美術の道に生きる私もその志をもたなければいけないと誓った晩でもあった。
桜製作所内にできたジョージ ナカシマを記念したギャラリー
桜製作所を築いてきた会長 永見眞一氏(右)、社長 永見宏介氏(左)のすばらしい親子継承者とともに
流政之氏アトリエ
温かく迎えてくれた流政之氏のスタッフ香美佐知子さん
高松は不思議な所だ。昔、二人の日系米国人である天才芸術家がスタジオを高松に構えた。
一人はイサム ノグチという彫刻家。もう一人はジョージ ナカシマという木工CRAFTMANだ。
大樋美術館ロビー、大樋ギャラリーにはジョージ ナカシマ制作の椅子と机が置いてあるのだが、相当昔に父が買い求めたものだ。
今でもその家具は古さを感じさせない新鮮さを保っている。流行を追っていなかったからかもしれない。
私自身も幼少の頃から慣れ親しんできたが、成長とともに更にその木のもつ深みと卓越したデザイン性を感じるようになってきた。
どうしても亡・ジョージ ナカシマに会いたくて桜製作所を訪れた。ここは彼が日本で制作した唯一の家具製作所なのだ。
一ヶ月前に記念館がOPENしたばかりで、ジョージ ナカシマと一生の出会いのなかで桜製作所を築いてきた会長 永見眞一氏、
社長 永見宏介氏の親子が迎えてくれた。ジョージ ナカシマの生い立ち(ワシントン州スポケーン生まれらしいが、
私が高校1年の時初めて米国を訪れた町も同じことに驚く)、足跡を丁寧にご説明頂いた。不勉強で知らなかったのだが、
昔、柳宗悦氏が唱えた民芸運動があったが、その「民芸」という言葉の「芸」に抵抗感があり、
広く大衆に使われるべきと「民具」という言葉が生まれたそうだ。
それを提案したのは、高松にやはりスタジオを構えていた彫刻家 流政之氏であり共感したのがジョージ ナカシマだったそうだ。
有意義な教えを多く頂いたのだが、更に驚いたことは永見会長も社長も何度か我家を訪れたそうで、
展示されている椅子も机も総てご存知であった。来年、金沢での再会を誓いあいながら桜製作所をあとにした。
途中、話題にもなった流政之氏のスタジオが近くにあるとのことで、穏やかな内海を眺めながらやがて見えてきた邸宅。
地中に隠れながらも、堂々の要塞とでも表現すればよいのだろうか?
一人の彫刻家が自然のなかにここまで存在を示すことができたことに驚いてしまった。
流先生は御不在であったが、スタッフの香美佐知子さんが温かく迎えてくれた。
海を見下ろせる庭園、考案された円形茶室、広い空間なのに所狭しと並ぶ作品群。総てにARTな気が漂っている。
私の工房の気も私自身の制作意欲によってpower upしていくのだろうか?
総ては生き様が証となるとでも言うべきだろうか。本来は空虚となってしまう巨大な空間には、それにまさる大きな気が存在していた。
考えてみれば既に亡くなったはずのイサム ノグチ。そしてジョージ ナカシマ。
今でも存在しているかのような両者のオーラは、時を共有した和泉正敏氏親子や永見眞一氏親子、
そして見届けてきた流政之氏などが存在しているからに違いない。私はそんな瀬戸内の温かな師走の風を感じながら高松を後にした。
個展会場に朝入る。訪ねて来られる方々の多くは我家を訪れたことがあると話して下さる。
学芸員として金沢に何度も出向き立ち寄って下さっている方、祖父(9代長左衛門)を知っていて8代長左衛門(曾祖父)、
10代長左衛門(父)も所持しているという大樋焼コレクターの方。
以前、車の雑誌に私が掲載されたのを読んで金沢の大樋美術館を訪れた方など、
遠い高松からこんなにも我家を懐かしく思って頂けることは嬉しい限りだ。
裏千家青年部四国ブロックのみなさんと高松の夜
そして裏千家青年部四国ブロックの仲間と再会することもできた。
先月9日、10日と四国ブロックは裏千家坐忘斎御家元を招き40周年記念会員大会を盛大に開いた。
私も総本部からの派遣で公式訪問させて頂いたが、その際に四国ブロック長の國方さんはじめ役員の方々に大変お世話になった。
今日は私が高松で個展を開催していることことで皆が再び集まってくれて、夕食を共にさせて頂いた。茶を志していることで、
この高松にも知人がいることは幸せなことだ。心地よく酔った私は話しまくりの独演場で幕が閉じたのであった。
國方さん、そして役員の皆様!!!ありがとう!!!
2008高松天満屋個展会場
12月10日から高松天満屋で個展がはじまった。福山、高松、そして明年になるが岡山、広島と巡回することになっている。
高松には今日、明日、明後日と会場に滞在する。
東京から高松の移動はかなり遠い。今年は偶然にも高松に訪れる機会が多かったが、いずれも羽田からの空路だった。
今回は700系のぞみ最新の新幹線で岡山まで行き、そこで特急マリンランナーで高松に入ることにした。
途中、富士や瀬戸内を眺め、さながらのテレビ番組「車窓から」を自らイメージしてのことだ。
しかしながら昨晩は友人達と盛り上がってしまい、早朝(6時)の新幹線では新聞を5分ぐらい読んで寝込んでしまった。
気がつけば「間もなく岡山」というアナウンス。マリンライナーも同じで景色どころではなかった。
5時間にわたった電車移動は、日頃の寝不足が解消された瞬間移動のようであったが、しかし元気に会場に入れたのも事実だ。
高松という地は芸術観を昇華させる町なのだろうか?
私が憧れるイサム ノグチという日系米国人の日本でのスタジオが高松にある(今は記念館)。
7、8年前に米国の恩師であるRICHARD HIRSCH教授とともに訪れたのだが、
イサム ノグチの弟子であった和泉正敏氏に丁寧にご案内頂いた。
まるでイサム ノグチが今でもそこで制作をしているかのような印象をもった。
そして翌日NEW YORKにあるISAMU NOGUCHI MUSEUMに訪れたのだが、彼の生き様を比較して考えることができた。
日米などといった国の概念ではなく、彼の「DNA」的血がそこにあるような気がした。
また、同じような環境に生まれたジョージ ナカシマ。彼は家具を中心にした天才的木工職人であったが、
やはり高松でアトリオをかまえている。
瀬戸内の気候や風土がそうさせたのか、高松は魅力的な地であったのだろう。
滞在中の合間に恩師と出向いたイサム ノグチの足跡に再び出会いたい。
そしてこのような町、高松での個展を成功させたいと思っている。
8:05金沢発のサンダーバードで京都に10:27着。そして嵐山吉兆へ!!!
約一年前、長年の友人 河内誠氏から今日という12/9を空けておくように言われた。
奥様である博子さんの50歳の誕生日を片岡鶴太郎氏亭主の茶事で祝ってもらうから!!!
空けておいたが何のことか一年近く経てば忘れてしまう。その私のようないい加減な人間とは違い、
あれからずっとその祝いの茶事を考えながら稽古を積んできたのは鶴太郎氏であった。
彼は点前を稽古しながら、博子夫人への祝意をいかに示すか?招かれる客をいかにもてなすか?ずっと考えてこられた。
かなり前から友人として御付き合い頂いてきたが、その姿は常に謙虚な挑戦者である。
彼は努力を語らない。結果を誇張しない。当たり前だけどできることではない。
4時間を費やす茶事だった。主茶碗は鶴太郎氏作の黒茶碗。彼は器用な人だと認識していたが、
骨董から極意を学び取っている姿勢には感動した。
暗い茶室で特別なスポットライトがある訳ではないのだが、ぼんやりと光続ける鶴太郎氏、輝きながらも控えめな博子夫人、
大きな体を小さくしながら彼女を見つめる河内誠氏、正客を御務め頂き見守る伊住弘美夫人、
祇園の芸鼓 真琴さんはプロの歌手でもあり合間に「HAPPY BIRTHDAY」をゴスペル調に熱唱してくれた。
嵐山吉兆で茶事は数多くあったに違いない。
しかし決して形式的ではない「主客一体」を皆が実感したすばらしい時間であった。
鶴太郎氏は自らを常に客観的にとらえている人だと思う。
言い過ぎなく、さりげなくメッセージにする生き方は、演技や絵画をはじめとした総ての芸術性に反映されている。
今回の茶事デビューに立ち会えたことは光栄なことであった。
床には円能斎(裏千家13代家元)筆の軸がかけられていたが「知命」という言葉があった。
天命を知ることであり50歳に至ったことも意味している。
伊住弘美氏、河内夫妻、そして私も天命を知る領域となった。
亡き伊住政和氏も同じ歳だった。彼の「知命」のメッセージで皆が集まれたのだと思う。
尚、この茶事は取材があったので明年3月号婦人画報に掲載されることになっている。
そして国立新美術館に開館時間10:00にダッシュ。
さすが最終日、満員状態だ。今日まで16万人を超えた入場者があったそうで、それでも昨年に比べると減ったという。
しかし想像を絶する大きな展覧会であることは間違いない。
午後、終了式があった。昨日は裏千家青年部を50歳で卒業したわけだから、大多数が私より年下、
日展では遥か年上の重鎮先生方と一緒だったので全く逆現象に戸惑いを感じてしまった。
審査員という仕事を与えて頂いたお陰で成長した自分もある。
このような場面を経験できたことは本当に有難いことであった。
2008/12/05 裏千家今日庵利休御祖堂参拝を終えての第21期正副役員、総本部外村課長様
2008/12/06 第21期全国委員退任式
2008/12/06 全国代表者会議
2008/12/06 私の右側は盟友だった伊住政和氏の弘美夫人、そして全国から集まった青年部役員
2008/12/06 別れを惜しむ青年部同士、何故か私以外は素敵な女性達???
タイトルに「最後」などと使いたくないのだが、、、。。?
23年前、米国留学を終え金沢に帰国し陶芸家としてデビューした。
時を同じくして裏千家茶道も再び学び始めた。何もわからないなかでの青年部入会だったが、あっという間に23年が過ぎた。
50歳になった今、去っていかなければならないのが青年部の定めだ。
茶道によって多くを導かれてきた。
誰も知らない、自分しか知らない茶道の足跡
・幼い頃から正月に茶を教えてくれた祖父。
・学生時代のある日、鵬雲斎大宗匠(当時家元)様とバッタリ会ってしまい、
サーファー風の日焼けとカーリヘアー(今は想像できない?)、そして破れたジーンズの私をとても心配されたらしく、
茶を習わせるべきとご紹介下さった堤恒子先生(堤義明氏ご母堂)。
初めての稽古で頭をぶつけて流血したが、茶道だけでなく様々に温かくご指導を賜った。
・そして米国留学、ニューヨークでは山田尚先生、師であり米国の父でもある。ボストンでは愛子ロジャースさん、
師であり米国の母でもある。白人先生が着物で私はジーンズで茶を学んだ。
・帰国後、鵬雲斎大宗匠(当時家元)の紹介で茶英会(裏千家東京道場で総て英語を用いた稽古)に入会。
そして金沢の大島社中に入門。
1985 青年部入会
1993-1996 金沢青年部部長
(ハワイ・ロサンゼルス・サンフランシスコ青年奉仕隊/姉妹締結)
2001-2008 北陸信越ブロック長
(ニューヨーク9.11追悼茶会ロサンゼルス訪問 青年奉仕隊)
1999-2008 全国委員
2007-2008 全国委員会副委員
(第3回裏千家青年部サマーコンファレンス第1部会長・式典/基調講演担当)
2008年冬 青年部として最後の集まり
12/05
14:30 大徳寺で利休居士並びに御宗家のお墓参り
15:30 裏千家利休堂参拝
16:00 2007-2008全国委員会(第21期)正副役員会議
18:00 2007-2008(第21期)2009-2010(第22期)新旧懇親会
21:00〜? 覚えていないくらいのメローな深酒
12/06
09:00 2007-2008(第21期)2009-2010(第22期)正副役員会議
10:00 2007-2008(第21期)2009-2010(第22期)新旧全国委員会
12:00-14:00 LT(第21期出向員)呈茶
14:00 全国代表者会議(約500人)
18:00 懇親会(約500人)
21:00 北陸信越ブロックナイト
12/07
04:00 就寝
06:30 起床/東京へ(日展最終日会場担当)
この日の午前中も会議の予定ではあったのだが、日展最終日で東京に行かなければならないことをほとんど誰にも伝えたくなかった。
なぜなら青年部活動が懐かしく、誰とも別れたくないという昔味わった卒業感覚が辛かったからだと思う。
早朝のホテルロビーは私だけ、1人でフェードアウト。こんな消えかたが自分にあっているのかもしれない。
午後に届いた仲間からのMAIL(彼女も卒業)
本日昼過ぎ、今期最後の全国委員会が無事終了しました。
その後、宝ヶ池国際会議場の宝松庵茶会に参りました。
9代大樋茶碗がでてきました。
今朝帰られた大樋さん、朝1人でロビー出られたのかな?って…迷惑かしれんけど、お見送りさせてもろたら良かった。
躊躇して諦めた自分に後悔、メローな気分でした。
省略、、、
大樋さんはじめステキな方々と親しく話せことは、キラメク私のブロック長生活の大切な1ページです。
また、会いましょう。その時は、緑色の粉盛らせて頂きます
お世話様になりました。
有り難う。とても嬉しいMAILだ。
最後の2年間は宮本英光委員長、吉岡敏正議長を中心とした役員の一人として活動させていただいた。
茶道を通じたかけがえのない友人が多くできたことは有難いことであった。
何が裏千家青年部なのか?なぜ活動するのか?誰のためなのか?
次代の青年部の皆さん!考えていって下さい
2008/11/21 早朝の新幹線「のぞみ」から観た富士山 思わず合掌!!!
福山天満屋個展 今回は私が印象を受けたことと作品を対比する試み
コロラドで観た(経験した)インスプレーションから
18日から福山(広島県)天満屋での個展が始まり、私は21日から23日まで滞在し、
茶会やギャラリートークなどを行うことになっている。この展覧会はツアーの企画でありこの後
高松、広島、岡山と来年2月まで巡回していくことになっている。
21日早朝に東京を発ち新幹線で福山に移動。快晴、途中で雪景色の富士山が美しく見送ってくれた。
思わず手を合わせて「妹」に合掌!!!
その後、岡山あたりまで爆睡して日頃の寝不足を解消。
福山天満屋美術画廊に到着。待ち受けていたお客様と早速にトークとなった。
会場構成は私がデザインした全くそのもので、持ち込んだ音楽、図録、作品総てが一致していることが常日頃の試みだ。
世相を振り払うかのように、毎日新聞、朝日新聞、中国新聞、山陽新聞などマスコミ各社の取材もあったお陰で、
連日賑わっているようだ。ギャラリーの方々もとても好意的で嬉しい。総てに有難いことだと思う。
私は23日(14:00よりギャラリートーク)まで滞在する予定。
近隣の方々にはぜひご覧頂きたく思います。
審査員(私も)が出席した。青木文化庁長官の臨席もあり、各受賞者にとっては忘れられない時間となったことだろう。
私の地元金沢からは工芸美術から杉原外喜子氏が初めての特選、日本画からは古沢洋子氏が2度目の特選を受賞した。
日本芸術院会館は歴史を感じる建築物であり、今まで訪れた人々には大きな節目となって印象深いはずである。
私はこれで5度訪れたことになる。過去2回は父の慶事。2002年私の初めての日展特選授賞式。2005年私の2度目の特選授賞式。
そして今回の審査員としての出席。いずれも心境が異なるが有難い機会であった。
夕刻からは日本現代工芸美術家協会に所属する日展受賞者からの謝恩会があり、審査員だった私も招いて頂いた。
その後も二次会などで受賞者の方々と歓談ができてとても有意義な時となった。
金沢に初雪が舞った。昨日、制作中にラジオで聞いた「明日はぐっと冷え込み、雪になるでしょう!」耳を疑ったのだが、
本当にその様相となった。仕事場の木々は一気に紅葉したが、強風、雷、雪、まさに真冬の金沢だった。金沢に生まれて50年、
こんな早い時期に金沢に雪が降った記憶は私にはない。天候だけでなく、考えられない事件や景気の底冷えこみなど、
世の中どうしてしまったのだろうか?こんなことを思ったからか、後に世相を考えさせられることが起こってしまうのだが、、、
午後には金沢市役所で金沢市助役などの関係者が集まり「金沢世界工芸トリエンナーレ」の開催委員会が開かれた。
マスコミ関係各社の取材もあったが、これは平成22年度にゲストキュレターを招き、
現代美術とリンクさせた世界最高水準の工芸のイベントを実行する会議でもあった。
これまで国内工芸コンペ、世界工芸コンペ、世界工芸フォーラム、この間に「金沢世界工芸都市宣言」を提唱した。
金沢市工芸協会が主体となり私はこれにずっと携わってきた。
これを発展させ来年、翌年と準備期間として、最高のイベントになるよう模索していかなければならない。
金沢21世紀美術館秋元館長、金沢市工芸協会理事長 中川衛先生、副理事長の私とで大枠を考えながら進めていくことも決定された。
このことに私は努力を惜しまない。きっと金沢に最先端の工芸と、究極の伝統工芸が同居することになるだろう。
夜は東京に移動、多くの友人とともにボジョレーヌーボーのカウントダウンEVENTに参加したのだが、朝方まで盛り上がってしまった。
追記 後に世相を考えさせられることが起こってしまうのだが、、、
山手線でのこと
私は大きなキャリアバッグを持ちながら品川駅から山手線に乗った。ハンディキャップシートは空いていたのだが、私は座らなかった。
その直後、一人の方は座るべき人であり、残り2席を学生が座った。
一人はDSでゲームを一人は本を取り出した。10分後ぐらいだろうか目の前には、杖のお年寄りがやってきた。
私はわざと聞こえるように「お座りになられませんか?」彼らは立とうともしない。
完全無視状態!!!その方は「いいです。次の駅で降りますから」私は思い切り睨みつけてしまった。
やがて次の駅に到着。その方も私も降りる。
その時、後ろから私の肩に強くぶつかり通り過ぎたその学生、私は彼の後襟を握ってしまった。
睨み合い、、、険悪、、、知らない人は私と学生の喧嘩、、、?
結局、耐え忍び何も起こらなかったが、何故そうなったか納得がいかない。恥をかかせたとでも思ったのだろうか?
私の学生時代は、いわゆる「ツッパリ」と称された不良に思えた若者でも席は譲っていたと思う。
たった1回のことで大げさかもしないが、やはり今の日本はどうかしないと大変なことになってしまう。
あり得ないとは思うが、仮に私が言い続ければ刺されたかもしれない。
正義が正義でなくなる、そんな社会になっているのではないだろうか?
でも、私ごとき、何もできない。
自分自身、出来る限り心して道徳、倫理を実践していこうと思う。
裏千家青年部は50歳以下であることが定義となっている。長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県という地域を
北陸信越ブロックと称し、およそ1000人の裏千家茶道を志している人々で構成されている。
そのブロック長を8年間務めさせて頂いた。50歳となった今、寂しさはあるのだが多くの人材が育ち、
気持ちよく引き継ぎができた。
8年間のブロック長、最後の2年間は全国委員会副委員長という立場を頂き全国の至る所まで総本部からの派遣で
公式訪問することができた。その結果、歴史、地域、人、様々なことを学べる機会を得ることができた。
想い出は尽きないのだが、青年部活動を通じて日本各地に茶道を志す友人が多くできたことは嬉しい限りである。
平成20.21年度のブロック長は行松宏展君に決定しているのだが、彼は私が発案したブロック内の若手会員からリーダーを育成する
研修チームの一期生でもある。仕事は常に真摯に取り組んでいる和菓子職人、きっと皆の期待に応えてくれる立派なリーダーと
なってくれるだろう。他の役員にも多くのこのチームの出身者が含まれている。
彼らは弟分のようでもあり、とても頼もしい人材となってくれた。
金沢で15日は引き継ぎの会議を行い、夜はホテルで70人ぐらいの懇親会、そしてバンドステージのあるホールを貸し切った二次会。
感無量の私は歌い踊り、3次会あたりで眠ってしまった。翌日は研修チーム最後の事業となる金沢21世紀美術館茶室での茶会、
そして修了証書授与式。
彼らの真摯な姿には涙がでてしまった。とてもすがすがしい時間でもあった。
人に何かを残していける。こんなすばらしい経験をさせて頂いたのはこの青年部の活動のお陰だ。
坐忘斎御家元、鵬雲斎大宗匠をはじめとして裏千家関係者に深く感謝を申し上げたい。ありがとうございました。
開幕した日展。11/2に行われた「日展工芸」と題した国立近代美術館工芸課長金子賢治氏の講演をはじめとして様々の企画がある。
11/10 10:30からは「らくらく鑑賞会」が開かれた。募集された約20名の方々を日本画、洋画、昼食、書道、工芸美術、
彫刻と順番に各科の先生(私以外は評議員や会員先生)が担当して解説するという試みである。
私は工芸美術を担当させて頂いたのだが、参加者の質問は実に的確なものであり、
作家だけではなく視覚される人々の心理を垣間みることができた。
また、参加者とともに他の科の先生の解説を聞けたことで工芸とは違った分野の領域や思想を学べたことも大きな収穫となった。
平成茶会IN丸の内で参加した大学生達
平成茶会IN丸の内で参加した第21期LT(今年度裏千家青年部の若手育成事業のメンバー)
APPIAで会食させて頂いた岡野夫妻(両脇)と渡辺夫人
午前中は高松で第40回裏千家青年部四国ブロック記念会員大会でのパネルディスカションに参加、
閉校式に全国委員会副委員長として所見を述べさせて頂き関係者と昼食。そして14:35高松発のANAで東京へUターン。
羽田から直行で裏千家青年部関東1,2,3ブロック、東京商工会議社との合同の平成茶会in丸の内の打ち上げPARTYに参加。
三菱地所などの協力を得て、約5000人が参加し、7席の茶会のBIG EVENTとなったようだ。
裏千家にとってもこのようなかたちでPUBLICにEVENTを打ち出せたことは初めてのことかもしれない。
そこには第21期LT(今年度裏千家青年部の若手育成事業のメンバー)や裏千家茶道を志す学生なども参加していた。
いずれも顔見知りのメンバーだったりで再会できたことは何よりであった。
19:00丸の内からTAXIで西麻布のイタリア料理店APPIAへ移動。
私の兄貴分でありずっと見守って頂いている岡野夫妻、渡辺夫人と会食。
APPIAは広尾の店は何度も訪れたことがあるが、ここは初めての食事となった。
空間も味も会話も最高で良き想い出となった。
明日は日展の会場で鑑賞会があり私が解説をしなければならない。
下勉強をして就寝しなければ!!!
今日朝、東京から飛行機で高松に到着。空港には青年部の女性が出迎えてくれた。
私にとって裏千家青年部全国委員会副委員長としての最後の公式訪問行事だ。関係者と昼食を頂き間もなく坐忘斎御家元が到着。
親支部席、青年部席の茶会へ同行させて頂く。親支部は伝統に基づいた濃茶、青年部は現代を見据えた薄茶であった。
その後、記念式典が高松国際会議場で香川県知事、高松市長、平井卓也衆議院議員などの出席のなか執り行われた。
そして御家元の記念講演があり地元青年部からの26の質問をテンポ良く答えられ、その内容から余韻を残す生き方を学んだ。
「鐘を鳴らせば必ず音は消えていく。消えることは何かを生み出すことを再び暗示させる」消えていく美学とも言うべきだろうか!
過去を振り返り、今を観て、未来を考える。まさしく芸術の表現方法のようでもある。
御家元の御出席のもとに懇親会が開かれ、私は乾杯の音頭をとらせて頂いた。
今、このブログを書いている時間は正確には11/9 3:00でまだ眠っていない。
午前中には講演会や、私も登場するパネルディスカッションも開かれる
09:30からの開幕式
第40回日展 工芸美術 第1室 手前の飴色の大きな器が今回の出品作
10月28日、29日、国立新美術館において工芸美術の審査員が中心となって入選作品、無鑑査作品を第1室から9室まで陳列した。
個展では自らがレイアウトして会場構成するのだが、その経験とは異なる日展というメジャーな展覧会で、
別々の作家の作品を一同に並べることは別の意味でのセンスが求められる。経験ある先生方の巧みな陳列方法には驚かされた。
審査員は審査のセンスも問われるが、そのような団体展の会場デザインセンスも問われる。全てに初めての経験だ。
第1室、文化功労者、日本芸術院会員、日本芸術院賞受賞者、文部科学大臣賞受賞者、評議員、審査員、最も注目されている委嘱作家。
第2室、第4室、日本芸術院賞受賞者、評議員、会員、委嘱、無鑑査、一般の入選者。第3室、特選受賞者や新々気鋭作家。
第5室、第8室は若手注目作家。第6、7、9室は新入選を含めた激戦をくぐり抜けた入選作品。
このように各室を特徴づけした陳列となった。
30日午後2時からは入選者への内覧会が開かれた。初めて入選を果たした出品者や特選受賞者などの嬉しそうな顔を目にして、
審査員になれたことの喜びを実感、これも初めての経験だ。31日朝9:30よりテープカットが行われ、遂に第40回日展は開幕した。
来場者の本年の反響はどのようなものなのかとても楽しみなことでもある。ちなみに日展会場で眼にするキャプションには作家名、
作品名、出身、役職などある。そのルールを参考の一助になればと思い説明する。
・日展(工芸美術)で今回展示される作品 約660点
入選作品
(今回は約1000点の出品から500点が入選、そのなかで特選受賞作品10点)
無鑑査作品
(委嘱、無鑑査、新審査員、会員、評議員、理事、常務理事、参与、顧問で約160点)
・日本芸術院会員まで極めた先生の検証例(例外もあるので断定ではない)
一般入選→1度目特選受賞(毎回10作品)→無鑑査(特選受賞翌年度)→2度目特選受賞(翌年より委嘱作家/日展会友)
→新審査員(翌年より日展会員/日展会員賞)→更に2度の審査員(日展評議員)→内閣総理大臣賞または文部科学大臣賞
→日本芸術院賞(日展理事/参与)→日本芸術院会員(日展常務理事/顧問)→文化功労者→文化勲章
長い長い道のりを歩いて来られた先生方は凄い
ちなみに日展(工芸美術)では奥田小由女先生(人形)が今年度の文化功労者に選ばれたばかりだ。
高岡市は来年、開城400年を迎える。その高岡市は、工芸の街でもあり前田藩の恩恵は金沢とも共有する。
富山大学芸術文化学部教授を務める伊東順二氏の提唱で、町古来からの鋳物、銅器などを中心とした工芸品を回帰するために、
安土桃山時代の記憶をとどめた「楽市」を高岡市金屋町で開催されることになった。
■10月24日夜
10月24日夜パネルディスカッションが富山県高岡文化ホールにおいて
パネル「林忠正にみる日本の工芸の未来」壇上から参加者を私が撮影
パネルディスカッションが富山県高岡文化ホールにおいて「林忠正にみる日本の工芸の未来」と題して開催された。
パネラーとして私も招かれたのだがパネリストは以下のとおりである。
今泉 今右衛門氏(14代・陶芸作家)大樋 年雄(陶芸作家)
緒方 慎一郎氏(インテリア・デザイナー)隈 研吾氏(建築家)中村 信喬(人形師)伊東 順二氏(コーディネータ)
■10月25日(土)、26日(日)
10月25日(土)金屋町楽市ゾーンミュージアムの現場でマスコミから取材を受ける
金屋町楽市ゾーンミュージアム:工芸×生活×産業が同居する空間の再生とクラフトマーケットが開かれた。
いくつかの町家が解放されてパネラーなどの作品が陳列された試みと、
また、地元の茶道藪内流の先生の野点のもてなしもあり、両日で2万の人々で賑わった。
■10月25日(土)夜
10月25日(土)夜寄り合い(宗泉寺)での講師陣
寄り合い:つくり手・つかい手・つなぎ手の交流ということで宗泉寺:「職」技を通してもののあり方を談義した。
講師に私も参加させて頂いたが、
緒方 慎一郎氏(インテリア・デザイナー)桐本 泰一氏(漆芸家)中村 信喬氏(人形師)
柳原 正樹氏(水墨美術館副館長)伊東 順二氏(進行役)
という方々とともにさせて頂いた。
2005年11月22日〜27日金沢21世紀美術館でのブルース・オズボーン写真展「親子」での撮影中の写真
(ブルース・オズボーン氏撮影中に横から撮った写真です)
以前、金沢21世紀美術館での「親子」写真展で、私と娘のシーンも撮影して頂き写真も展観されたことがある。
この写真は、時が経てば私といたことを娘は懐かしく思い出すことであろう。
彼は長い時間をかけてこのプロジェクトを続けてきており、私のような想いをもっている人は多い。
いわば親子の心の現代アートであり、私はずっと注目してきた。
ブルース・オズボーン夫妻の取材を受けて
そんなブルース・オズボーン氏が取材で訪れてくれた。
我家の御神木「折り鶴の松(金沢市指定樹木)と私の撮影となったが、我家をずっと見守ってきたこの木を取材してくれた
写真家は実はあまりいない。神が宿るこの長寿の「折り鶴の松」これからも生き続けていってほしい。
そのような意味でも有難い取材だった。
マツダのアジア版社内誌に掲載されることになっている。
兄上である千住博氏は日本を代表する画家であり、千住明氏(作曲家)、真理子氏(ヴァイオリニスト)の3兄弟、
ご両親を含めて長い御付き合いを頂いている。このように三者三様に活躍する兄弟、育てたご両親、
私は常に尊敬の念を抱いている。
10月25日、アンサンブル金沢定期公演で明氏は作曲家として、真理子氏はヴァイオリニストとして競演するのだが、
一緒になることはほとんどないらしい。それも金沢という場所での公演だから、我家を訪ねてくれた。
23日の晩、明氏、真理子氏、そして御母上とともに「つる幸」で会食をした。
御母上は大病をされ病後初めてのお出かけとなったのだが、この夕食が更なる励ましとなった。
なぜなら兄上は四校(金沢大学の前身)出身であり、その後、金沢工業大学で長い間教鞭を取られていたのだ。
そしてこの「つる幸」をこよなく愛す常連だったのだ。東京に戻られ、3年前に亡くなられたのだが亡くなる直前まで、
金沢の「つる幸」にまた行きたいと何度もお話になられていたそうだ。「つる幸」ご主人や女将さんも加わり想い出話しに花が咲いて、
我々は献杯したのであった。そのような縁を結ぶことができた私も思わずもらい泣きをしてしまった。
人の縁は不思議な糸で繋がっていることを再認識した。
献杯
10月16日から21日まで郡山市にあるウスイ百貨店で私の個展が開かれている。
19日、20日と4回のギャラリートークをさせて頂いた。
また、日展入選者の発表が昨日あったことで地元日展作家も訪れてくださりかなり多くの方々で会場は連日賑った。
私にとっても福島県は初めて訪れた地でとても有意義だった。
実は今回の個展、少し日程的に無理なことが生じてしまった。
かなり前に決定していた日程は企画側の都合で変更となり今回の時期となったのだが、当初、私には何の問題もなかった。
それが日展審査員に推挙されたことで完全に日程が重なってしまったのだ。15日夜は盛大なRECEPTIONを開いて頂く予定となっていた。
当然、審査中であって伺うことも出来ないので中止となった。主催者の福島日報社、ウスイ百貨店、
企画して頂いた光悦洞美術館などの関係者には多大な迷惑をかけてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、
日展作家として審査員に推挙されることはとても栄誉なことであり、理解頂いたことに深く感謝している。
ただ当初の予定であれば何の問題も生じず悔やんでも悔やみきれない。
そして友人の荒井議員が地元ということで、駆けつけてくれて飲み明かした夜。
とてもいい時間でした。
ありがとうございました。
日展 第4科工芸美術の審査が14日から17日まであった。今回、私は新審査員として、また審査にあたる17名の最年少でもあり、
とてもいい経験をさせて頂いた。場所は東京六本木にできたばかりの国立新美術館、
北海道から沖縄まで約1000点の一般公募の作品ひとつひとつを挙手で判定していき最終的に半数の方が入選する。
言い換えれば半数の方が落選なのだ。とても辛い現実でもあるのだが、一人の作家が一生懸命に制作した作品を我々は見抜こうとする。
何を美とするか任せられた自由なのだが、「審美眼」という言葉のとおり審査員の美意識が問われていることでもあるのだ。
毎日、陶芸、染色、漆、木工、金属、紙などの工芸と称される多種多様な作品を眼にするのだから眼球の奥が疲れたという感覚でもあった。
日展という場では初めての経験であるがゆえに真剣に真摯に臨ませて頂いた。
立場は人を変えていくと言われるが、確かに日展で自らの作品も審査を受けてきたのであるが、
入選とは何を意味するのか明快ではなかった。しかし、今回は多くを学んだ。
公募展に出品するのだから入選の制度は当然のことでもあるのだが、
作家の姿勢(道徳観)が反映された結果が作品の品格として現れくるのではないだろうか。他人をあなどらない。
思いやり。悪口を言わない。子供に言うようなことなのだが、遺伝子はそれに反応していくらしい。
多くの眠っている遺伝子をONにできるのは肯定的にそして客観的に自らを観れることではないだろうか。
選ばれた500点のなかから更に選ばれた10点が特選だ。日展は10月31日から12月7日まで国立新美術館で開かれる。
11月10日、12月7日(他の日程は調整中)私は会場で説明役となっている。
昭和3年7月 仙叟(裏千家始祖)を忍び仙叟遺跡隆茗会が金沢にある月心寺に於いて茶会を催した。
当時の裏千家家元、野村徳七(野村証券創業者)などの全国の数寄者などが会員として名を列ね金沢に集まっている。
その際、私の祖父(大樋焼九代)も主要なメンバーとして参加しており、記録によれば位牌堂に三ツ具足一揃を献上している。
以来80年間、この隆茗会は人から人へ大切に受け渡されながら続いてきている。
寛文年間に前田家が仙叟を金沢に招き、その時に長左衛門が同道し大樋焼が始まった。
仙叟は20年以上の金沢滞在を終え京都で裏千家を興した。月心寺には仙叟の墓があり、長左衛門もその側に眠っている。
我家にとってはその歴史が全ての始まりでもある。
十代長左衛門(父)は80歳、間もなく81歳となる。まさしく隆茗会の歴史とともに生きてきたと言えるのではないだろうか。
10月5日、隆茗会80周年記念茶会が法要とともに月心寺で開かれ、父が濃茶席主を努めさせて頂いた。
朝7時30分から茶会が始まり、15席で終了はほぼ17時。
京都から裏千家宗家の名代も参席して頂いた。
道具は仙叟を忍び、長左衛門との関係に感謝するものを中心にして、隆茗会が始まった時代の祖父の作品などを用いた。
父は十代長左衛門として随分長い時間をかけて取り組んだと思う。
20年後は100年の記念茶会があるだろう。父には勿論まだ現役でいてほしい。
しかし、もしそのような機会を我家がまた与えて頂いたとすれば、私が責任をもって担当することになるだろう。
歴史や伝統とは何なのか、今日は深く感動した日でもあった。
そして、父を中心にして母や私が茶碗を運び、弟(裏千家業躰部)が点前、
このような茶会を催せた境遇に手を合わせずにはいられない。
大樋茶会
翌日に隆茗会80周年記念として金沢・月心寺で父が濃茶席主を努めさせて頂くことになっている。
前日ということで隆茗会会員ではなくても我家にとって大切な方々をお招きして大樋茶会を開いた。
また、金沢市観光局の事業の一環として全国公募したなかでの席ももたせて頂いた。
嬉しいことに昨年のニューヨーク、台湾での個展、本年の京都での茶会など、
私を常に見守って下さる方も駆けつけてくださり感謝感激だった。
16:00その茶会が終わると直ちに京都へ車で直行
ぎゃらりぃ思文閣
日韓美術展~京都とソウルの出会い~展RECEPTIONへ
慌ただしく車で京都へ向かう
18:00からのRECEPTIONには間に合わなかったが到着
この展覧会は伊住弘美氏(故 伊住政和氏夫人)からの依頼を頂き私も参加させて頂いている。
日韓の現代美術展で面白い組み合わせかもしれない。
韓国の共通の知人がいる作家もいて、すぐに意気投合した。
RECEPTION終了後に彼らと共に会食をして金沢に戻る。
翌日朝 1:00金沢に帰宅、隆茗会記念茶会のため5:30集合だから即就寝
伊住弘美氏(左から4人目)と韓国の作家達とともに
以下に展覧会概要も書いておきます。
ちなみにシン・ソンウ氏[彫刻家]は歌手、俳優で韓国ではスターだそうです。
シン・ソンウ氏は京都で10/12にコンサートも開く予定
日韓美術展~京都とソウルの出会い~
2008年10月5日(日)~2008年10月11日(土)
ぎゃらりぃ思文閣
京都市東山区古門前通大和大路東入元町386
TEL 075-761-0001
チャン・ヒョンテク [彫刻家]
オ・サンイル [彫刻家]
ヤン・テグン [彫刻家]
チョン・チェチョル [彫刻家]
キム・ジョング [設置作家]
シン・ソンウ [彫刻家]
大樋 年雄 [陶芸家]
栗本 夏樹 [漆作家]
近藤 高弘 [陶芸家]
周防 絵美子 [金属・ジュエリー]
三嶋 りつ恵 [ガラス作家]
敬称略・順不同
オーストラリアからの真摯な陶芸愛好家をお迎えして(大樋長左衛門邸前にて)
朝、21人のオーストラリアからの来訪者を迎えた
大樋美術館で金沢や工芸、そして大樋焼などの説明をした。
ところがこのメンバー、皆がメモをとりながら質問が飛び交う
「金沢と京都の違い」
「茶道や工芸の襲名制度」
「日本陶芸における現代と伝統の捉え方」
心して答えたが、聞いてみると京都、信楽、美濃などを訪れてきていた。
最近、他国からの来訪者はこのような旅のスタイルが増えている気がする
興味あることに同期した考え方でものを観る
これが観光なのかもしれない。
そして、来られた一人一人から心ある感謝の言葉を頂いた
いい旅人と出会った気持ちのいい日だった。
招かれた六本木合唱団(三枝氏曰く3軍)からの祝いの歌
若宗匠は長い香道の歴史を背負う立場にある
しかし、実に柔軟で日本文化のネクストリーダーとなるだろう。
そのような彼なのだが、兄弟のように仲がいい
そして、出会った人と結ばれた
素敵な彼女だ。そして知性的で若をリードしてくれそうだ。
笑えるのは彼がプロポーズした時の話しだ
「結婚してくれる?」そう聞いた若宗匠に
彼女は涙して「幸せにしてあげる!」そう答えたそうだ。
かなり前からこの二人を知っていたが、まさしくそのような関係だ
大きな結婚式だったが、あれだけの心ある準備は大変だったと思う
嬉しそうな二人を見て乾杯!!!
お幸せに!!!
BOSTON GOVERNMENT CENTER
急に思い立ったように午後のシャトル便でNew York Newark空港からBostonに来た。
快晴の日曜日、そして今年最後の夏の陽気を感じる。当然、町は賑わっていた。
午後、行きたい所をほとんど歩いてみた。ゆっくりしたその時間は、
1981年から1985年の5年間をBOSTONで生活した私に、数々のことを思い出させてくれた。
あの時、あの人、今は、、、
歩いているうちに景色だけではなく人の残像も記憶から甦ってくる。気がつくと涙が溢れたり、
微笑んだり、間違いなく私の残した何かが私のために存在してくれている。
BOSTON CITY HALL(ボストン市役所)を訪れた。
1984年それも9月に私はそのイベントホールで初めての個展を開いた。
あの時の張りつめた気持ちは、とても新鮮だった。RECEPTIONではBOSTON UNIVERSITY学長、
BOSTON市長、BOSTON美術館などの要人、NYやBOSTONからの裏千家の人々、
そしてわざわざ金沢から駆けつけてくれた両親、多くの出席もあり、初個展は大成功であった。
しかし多くの人に支えられてのことで今も忘れることができない。
長い時間をかけて臨んだ個展が終わった時には、夢の次を考えていない若者(自分)は脱力感で何もできなくなった。
今でも常に夢の次の夢、臨んだPROJECTの次のPROJECT、そのように取り組んでいこうとするのは、
この経験からに違いない。
BOSTON COMMON(ボストン公園)
恋人同士、家族同士、楽しそうに最後の夏を過ごしている。
ベンチに座っている自分を覗き込むようにリスがやってきた。
えさがほしいのか私から離れていかない。1981年9月初旬の日曜日、
私は同じ公園で同じようにリスがやってきたことを思い出した。
もちろんその時のリスではないだろうが、親子だろうかとも考えてしまった。
あの頃は新学期で来たばかり、友人もいないような寂しさでリスと話した自分が懐かしく思えた。
2008年9月初旬の日曜日、BOSTONは新学期を迎えた学生達で賑わっていた。
友人のようで、まだ馴染みきれない、そのような若者達が多かった気がする。
20数年後、BOSTONを再度訪れ、彼らも昔の自分を見るのだろうか?
この町に思い出をもてている自分、遠い昔とは悲しさのなかに足跡があるような、
不思議な幸せを感じた日であった。
9月1日よりニューヨークに滞在している。
ニューヨーク時間で9月5日11時、5番街側の57丁目にある日本クラブギ
ャラリーにおいて、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、デザイ
ンミュージアムなどの主任学芸員などを務める方々と共に審査員をさせて頂い
た。審査方法は日本とは全く違うやり方であり、なぜ賞に選ぶか各自が徹底的
に論議していく。今注目の米国大統領選のデヴェードの考え方はこのような場
面でも同じなのかもしれない。とても新鮮な気持ちで私は今回で3度目の審査
をさせて頂いた。日米会わせて200作品ぐらいの中から10作品を賞の対象と
したのだが、とてもユニークなのはGRABD PRIZEには、日本へのANA往復
航空券も渡されることになっている。
この展覧会のことで特記したいのは、運営されている方々の熱意についてで
ある。別に陶芸を専門にされているのではなく、人を励まし育てていきたいと
いうNPO精神に基づいて努力されていることである。もちろんニューヨーク市、
東京都の支援が基本ではあるが航空会社関係者、弁護士、美容師、実業家、日
本からの応援団など、実に多彩な人々がスポンサーを探し自らも出費しながら
の運営なのである。
18時30分、日本クラブでレセプションが開かれた。ニューヨーク市・東
京都の関係者、日本国総領事、受賞者、出品者、そして運営された方々などで
賑わった。授賞式では審査講評をさせて頂いたのだが、出品者の輝いた目が印
象的であった。展覧会は12日まで開かれている。
参考記事
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/en/n/report_index.html
http://www.info-fresh.com/index.php?pages=release&type=detail&id=85&fromtop=yes
http://www.nyartbeat.com/event/2008/5C08
お盆、5月連休、暮れ正月、何故かいつも工房で制作している。
昨日はお盆としては最後の日曜日、一人制作していた。
「日展審査員として恥じない記念的な作品を作りたい」
「秋から始まる、福山、高松、岡山、広島、での個展での新作」
もちろん、そのためだけに制作してもいいはずは無い。
少し疲れたこともあり、仕事の手を止めた。そして、周りを散策(18:30頃)
「どうしょうもない悲しさ」
「自然からの大きな感動」
「土が動いたことを示す」
私の頭を離れない。土で表現することに答えがなかなか見つからない。
ついこの前、コロラドで見たあの絶景!!!
俺は作家だ。自問自答。 一人、旅にでようか?
すると、後ろから突然に小石が後頭部に当たった感覚が襲う
何だ!この激痛!!!触ってみたら大きな蜂が!!!
びっくりしてその蜂を投げる。また攻撃しに戻ってくる!!!
激痛とともに大きく腫れ始める。
速攻で車を運転して救急車のように金沢大学医学部へ。
何故か、買ったばかりの車がその駐車場で故障して動かなくなる。
ダッシュボードには「エンジン故障 出力低下 もよりのディーラーへ」
???????????????????
事前に連絡しておいたので若い女医さんが待機していてくれて
笑い顔で「大丈夫です。針も残っていません。今晩痛いですが!」
不思議な一日だった
一ヶ月ほど気管支炎で咳き込んで夜が眠れない状態が続いている。
その晩、咳で海老ぞり状態で眠ろうとしても、刺された場所がまた痛い
今日朝、刺された現場付近に大きな蜂達の巣を発見!
人の敷地に勝手にやってきて歯向かう蜂に、リベンジか?共生か?
「どちらかと言えば リベンジだ!!!」
今日は63回目の終戦記念日。
そして、北京ではオリンピックが開かれている。
喜びに溢れるメダリスト達。
しかし、結果を残せなかった選手もいる。
テレビでのインタビューだけで論じてはいけないかもしれないが
日本の選手の多くから、悲壮感を感じる。
あまりにも我々の期待がマスコミを通じて過大なのか
必死に日の丸を抱えて挑んだからか
彼らも自らも傷つき、彼らの努力をもっと讃えてあげたくなる。
そのように感じるのは私だけだろうか。
男子柔道での選手の顔
野球での打者の顔
特攻隊の兵士と生き写しのような気がする
もちろん、戦争を私は知らない。
しかしVTRで見た零戦特攻隊、あの光景を思い出してしまう。
そして、甲子園での高校野球
球児の顔。試合が終わる際の独特のサイレン
なぜか空襲警報のサイレンと同じような気がする。
どうしてなのだろうか?誰も変えようと思わないのだろうか?
不思議な気がする。
旧盆の今日。正午の黙祷。不戦の誓い。
誰が選んだのか、今日という終戦の日。
そんな日だから、いつもと違う自分がいる。
今日は、本年開催される日展に挑む輪島地域の工芸作家を対象にした研究会に招かれた。
場所は石川県輪島漆芸美術館、対象は輪島地区の現代工芸に所属する作家
石川県から工芸部に審査員を務めるのは、
日本芸術院会員 三谷吾一先生、日展会員 武腰一憲先生、そして私。
参加者は全員が漆を生業とする人々であり、試作したものやスケッチを審査員がコメントする。
いくつかの地域に招かれてきたが、輪島は水準と意欲が高い地域でもある。
漆で制作することは、構想を練りながら信念を持ち合わせ、時間をかけたものである。
真摯に取り組む漆の人々の自信は、洒落ではないが「故に地震に打ち勝った」そうとも思えた。
なぜなら、つい数日前に金沢での集中豪雨を垣間みたからかもしれない。
最後に
三谷吾一先生のぶれの無い適切なコメント、武腰一憲先生の美論は新審査員の私自身が学ぶことが多かった。
輪島の皆様、いい機会をありがとうございました。
金沢の集中豪雨から2日たった。
金沢市瓢箪町にある私のアシスタントの実家を訪ねた。実に悲惨だ。
運びだされた重い畳や家具が路上に並び、床上浸水によって泥だらけになった部屋
何度も運び出しても次々に下から上がってくる土砂で手が付けられない。
一帯の人々全てが同じ作業を繰り返していた。
そして被害の話しをしていると、どこかからフラッシュの光が目に入る
新品の作業服と真新しい長靴を履いた、見たことのある県会議員を中心に何人かの集団が歩いてくる。
作業している住民に声をかける「ご苦労様」そして背後にはVTRで撮影する人とお抱えカメラマン
フラッシュの光はその都度、声をかけての撮影によるものだったのだ。
そして、その議員の左腕には政党の腕章が!
選挙が近いと噂されているが非常識極まりない。
付近の人は、「非常識」「何を考えている」「帰れ」の声
聞こえないのか、堂々と通り過ぎていった。
実はこの文章は8/1未明に書いている。
なぜなら時間が経つごとに彼のKYな行動に考えさせられている。
話したこともない人ではあるが、彼を責める気もしない。
なぜか自分が落ち込んでいるのだ。
なぜなら、「自らもあのような行動をどこかでとったことがあるかもしれない」
あれは自分だったかもしれないと思ってしまうほどに。
自問自答
今まで、誰かを傷つけたかもしれない。知らない言動や行動で、、、
様々な団体などでいろいろな仕事をさせて頂いてきたから
もう一度、自らを戒めなければならない気がする。
友人が撮影したマンションから見えた氾濫した浅野川、本来は木の奥は道である
10:40普段は女川という優しい川も豹変した 撮影:大樋年雄
弟のマンションも直ぐそこにある。路上には鯉が逃げ遅れていた。 撮影:大樋年雄
主計町 泥だらけになった茶屋街、しかし多くの人々が女性である芸子さんの手足となって助けていた 撮影:大樋年雄
前日、ジャズフェスティバルが能登であったので加賀屋に宿泊した。
そして今日の朝、車で和倉から金沢の自宅に向かって出発した。
後15分ぐらいで自宅というエリアだろうか、異常な雨雲が上空に見えてくる
そして、友人から携帯がなる。
「凄い雨」「川が氾濫しそう」「全く前が見えない」
写メールが届く!
しばらくして自宅に到着、車をガレージに停めて付近を見渡した。
わずか10件ぐらい後ろまで道が川のようになっている。
床下浸水した家の中から人々が水を運びだしている。
浅野川付近まで行ってみると信じることができない光景だった。
弟のマンションやその付近は最も被害が大きいエリアでもあった。
水が引いても残った土砂、地下駐車場は泥水と下水で車は浮いていた。
そして、断水、停電が続いている。
主計町は茶屋街として有名だ。子供の頃から庭のような場所でもある。
全ての茶屋や付近の家屋は床上浸水だった。
普段、着物をきて艶やかに舞う芸子さんも泥だらけで作業をしていた。
日本、金沢いったいどうなったのだろうか?
みんな「うつ」状態!
ところが金沢の人は違う。わたしが目にした光景は明日があった
人は人を助ける。普段は挨拶もしなかった住人同士でも声を掛け合っていた。
そして、どんどん人が集まってきたのだ。
では最後に近況報告
金沢市橋場町という町名は全国に報道されたようで、
同じ住所の我家には電話問い合わせが殺到した。
幸いなことにぎりぎりのところで大樋美術館は無事。
仕事場にある窯場と家が床下浸水した程度だった。
しかし、本当に近い所で被害にあった方々のためにも
早い復興を祈ると共に、何かしなければならないと強く感じている
2008.7.26マリーンの歌声が星空と共鳴 撮影 大樋年雄
2008.7.27モントレージャズフェスティバルイン能登での観客 撮影 大樋年雄
2008.7.27夜 打ち上げPARTYでの実行委員長である小田禎彦氏の挨拶 撮影 大樋年雄
モントレージャズフェスティバルイン能登が石川県七尾市マリンパークで開催された。
・モントレージャズフェスティバルについて
サンフランシスコから北へ車で2時間、モントレーという町がある。
この町は世界が注目するジャズフェスティバルが毎年開かれており、昨年は50周年ということで
加賀屋会長 小田禎彦氏をはじめとした訪問団とともに現地を訪れ、私も依頼された記念作品の贈呈式に出席させて頂いた。
近郊にはカーメールという町があり、あのクリンスト イーストウッドが一昔前に市長を務めた。
そしてモントレージャズフェスティバルの組織委員会の理事でもある。
・モントレージャズフェスティバルイン能登について
七尾市とモントレー市との交流はこのジャズフェスティバルを能登に誘致したことに起因している。
それ以降、行政や商工会議所、RC,高校、など様々に姉妹交流を行われてきた。
本年は20周年の節目を迎えており、私もその組織委員会の理事を務めさせて頂くことになった。
天候にも恵まれ、実に2500人の人々が詰めかけた。日本では最長のジャズフェスティバルともなった。
昔懐かしいマリーンも登場し、夜空と星にすばらしい音楽が響いた。
実に幻想的で、昨年訪れたモントレージャズフェスティバルにも劣らない雰囲気でもあった。
25日夜 前夜祭、そして26日,27日のコンサート、そして最後の打ち上げPARTY.全てに参加させて頂いた
ミュージシャン、実行委員会、七尾商工会議所、そして実行委員長でもある加賀屋会長 小田禎彦氏
お疲れさまでした。
稲盛氏に謝辞を述べる大樋年雄
7月18~20日、東京ドームホテルをメイン会場に第3回サマーコンファレンスが開催され、
全国各地から裏千家青年部会員約520人が集まった。
今回が3回目となるこのコンファレンスは、千 宗室御家元の発意により、
青年部会員が一堂に会して共に学び交流を深めることで、次代を担うリーダーとしての
素養を高めることを目的とする事業である
私は冒頭からのORIENTATION、開講式、基調講演、そしてそれに出席される
VIPや御宗家を担当する第1部会長(副実行委員長)という重圧のなかでの参加となった。
青年部は50歳が定年であって、今まで数々の先輩の足跡を確かめてきたのだが、
ついに私が去る年となってしまった。
そのようなこともあって、思い入れが強い時間でもあった。第1部会員の方々のお陰で、
参加者からとても印象的な始まりだったとお褒めの言葉を多く頂いた。
嬉しいかぎりである。
基調講演は講師に京セラ株式会社名誉会長の稲盛和夫氏をお迎えし、
「人生について思うこと」と題して基調講演をいただいた。
稲盛氏は、今日まで歩んできたご自身の人生を振り返りながら、
「善いことを思い、善いことをすれば、運命は善い方向に変えられるものです。
どのような試練も感謝の心で受け止め、幸運が訪れても自分を試す試練だと思う姿勢が大切。
全ては心の持ち様次第なのです」と語られた。
謝辞は私が担当で、偉大な人のことをコメントするなどという愚かなことかもしれないが、
以下のように述べさせて頂いた。
人は常に、壁に突き当たり、悩み、もがき、苦しみます
そのつど人間として何が正しいか考えます。
しかし、そんなに簡単に答えがみつかるものではありません。
稲盛先生の自問自答する中から生まれてきた人生哲学には
「人間としてこういう生きざまが正しいと思う」という信念があります
人生には主観、客観、反省、自覚という段階があるのかもしれません
常に「私が」と先に考えてしまいます
もしかすれば誰かに言われ「私がサマーコンファレンスにきた」と
考えていた人も多かったかもしれません。
今、お話を聞いた参加者皆が「サマーコンファレンスに私がいる」と
感謝のなかで思うことができていることでしょう
今、心が滅びた社会で、考えられない悲劇ばかりが起こっています。
日本は「うつの時代」ではないかと言う人も思います。
今一度、われわれは裏千家茶道の道を歩ませて頂いているという感謝のもとに
一日一日を懸命に生きていかなければならないと思います。
今日の「人生について思うこと」話されたことに、そのための多くのヒントがあったと思います。
懇願した稲盛先生に実際にお話頂いたことは、未だに信じることができません。
もちろん、坐忘斎御家元をはじめとした裏千家御宗家のおかげでもあります。
この境遇に深く感謝したいと思います。
今日のことは、参加者全員が忘れることはございません。
本当にありがとうございました。
裏千家青年部の北陸信越地区(長野、新潟、富山、石川、福井)は、およそ1000人の会員で構成されている。
私はブロック長として活動させて頂いている。毎年、その地区のどこかで大会が開かれており、
昨年は40回の記念大会ということで、裏千家鵬雲斎大宗匠をお迎えして、金沢で開かれた。
今回は福井市で開催されたこの大会、大盛況だった。
28日、約200人の参加者が永平寺参観などいくつかのグループに別れて学習した。
そして青年部OB席(なつかしい福井の先輩諸兄),現役青年部席の茶席でもてなして頂いた。
その後、開会式、懇親会が福井県知事、福井副市長、議員先生方、マスコミ関係各位の御出席のもとに盛大に開かれた。
そして29日、青木豊昭氏の「朝倉氏の歴史と文化」講演、裏千家事務局長 木戸崇夫氏の裏千家総本部報告などがあって閉会した。
参加者それぞれは、出会いのなかでとても有意義な時間であったと思う。
これも裏千家福井支部長の品川一郎氏をはじめとした支部のバックアップと地元青年部のご尽力の御蔭であったと思う。
28日、私は福井市内を散策したのだが、すばらしい歌に出会うことができた。
それは幕末に福井出身の橘曙(たちばなあけみ)という文人の一句。
天皇、皇后両陛下が1994年、米国へ訪れた際に当時のクリントン米国大統領が歓迎スピーチのなかで橘曙がのこした歌を披露した。
「たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無りし花の咲ける みる時」
朝起きて目にした花で生きていることの喜びを感じれること。
そのような意味だと思うのだが、ふと生前の妹が亡くなる直前に言ったことを思い出して、実は涙がでてしまった。
「お兄ちゃん!明日という意味って 天に月が、そして日があることをまた感じれる次の日がやってくることが明日なんだよね!」
合掌
7年前、木村ふみさんのコーディネートで知事と共にヨーロッパ視察をした人々によって「EUふみの会」ができている。
参加した大多数が伝統工芸に従事した方々であったからか、毎年皆が集まり各自が強い絆で結ばれている。
今回、すばらしい話を聞いた。もうすぐ開かれる洞爺湖サミットにおいて輪島塗の杯が使用されることになったのだが、
それにいたるプロセスがすばらしい。輪島漆器商工業共同組合理事長 西垣氏に伺ったのだが、
「数えきれない競争のなかで勝ち残った理由は、日本の国花は山桜、それを基にして中心には日の丸、回りは緑でエコロジー、
そして各首脳の名前を入れる。輪島の皆の知恵です」すばらしい発想だと思う。
通常、産地は外部のデザイナーに委託することが多い。しかし地場で知恵を絞り出し、
新しい意味あるアイテムを作りだすことは最も重要なのだ。
輪島塗の関係者に拍手喝采!!!
大角勲先生(現代工芸美術家協会富山会会長・日展理事)がこの初めての学術会議の定義と意義を発表された。
現代工芸美術とは、約50年前に富山出身の山崎覚太郎先生が、現代の新しい感覚で工芸を捉えていくことを提唱され、
日本現代工芸美術展が半世紀以上にわたり開催されてきた。
この日本美学術会議はそれを踏まえ、現代工芸を学術的に検証していくことを目的としている。
私は光栄にもパネラーとしてこの会議に招かれた。
午前の基調講演をされた東京藝術大学学長・宮田亮平先生
昼食会で左 大角勲先生 中央 高岡市長 橘慶一郎氏、右 大樋年雄
第1回日本美学術会議参加者の皆様 於 高岡ニューオータニホテル
21日夕刻 高岡ホテルで富山県、高岡市からの行政の代表の方々、現代工芸美術家協会富山会の会員の方々などと、
パネラーによる前夜祭が開かれた。大変盛り上がった場となったが、不思議なことにホテルと名がついた宴会場所は、
どう考えても料理屋でとてもレトロな雰囲気だった。
22日会議の場所は高岡ニューオータニホテル。午前に宮田亮平先生(東京藝術大学学長)、
春山文典先生(横浜美術短期大学学長)が基調講演をされた。
特に宮田亮平先生が話された「ときめき 芸術は身近なもの」は参加者を巻き込むとてもユニークな構成であり、
提案、提示(きっかけづくり)を若者に呼びかける大切さを唱えられており、伝承することの条件を学んだ気がした。
午後1時から3時までパネルディスカッションがあって、コーディネーターに大角勲先生、基調講演の二人の先生、
北日本新聞文化部長・勢藤和弘氏、そして私が参加させて頂いた。
そして私の発言を要約します。
日本文化の中で
昔、米国での留学の時の話ですが、白人の方に着物で私はジーンズで茶道を学んだ。
そこで日本を再認識した経験がある。
メトロポリタンミュージアム ボストン美術館でみた日本美術や歴代大樋の作品をみて感動を覚え、
夢をもち帰国したのであるが、なぜか日本や金沢にがっかりしてしまった記憶がある。
ブラジルなどの日系社会は古き良き日本がある。他国で日本に感心をもった人々は今の日本に誰も驚かないかもしれない
日本には茶道という「道」という文化がある。そこに使われる工芸美術は精神性が宿っている。
現代美術として
インテリア
伝統産業の最悪状況はBETTERになるきっかけかもしれない。
道州制が叫ばれる今日、廃藩置県以前の文化を検証する必要性を感じている。
北陸で考えたアイウェアデザインは鯖江+輪島塗り、加賀金箔、などでデザインできるのではないか。
これからの美学術
夢を大きく捉える!叩き込まれた技術があってもデザインが問われるのであって、意欲がなければ通用しない。
技術は発想や意欲の後に着いてくるのではないだろうか?
映画ダビンチコードのような隠し文化や暗号が日本文化にあるような気がする。
気づいた人に楽しさと未来が約束される
温故知新/温新知古 私はこれをメッセージにしている
La Grande Lumiere(ラ・グランデュ・ルミーエール)という新しいバンケットルームがホテル日航金沢に出来上がった。
光や音響の最高の設備を供えた空間であるから、結婚式や新しいかたちのPARTYなど広範囲に使用ができる。
ホテル日航金沢より私がオーダーされたことは、その空間を用いたなかで新しい文化をプロデュースするということであった。
そのひとつは先般の現代アートから考察するデザイン茶会である。これは年2回これから開かれる。
私がもうひとつ提案したのは晩餐会。大人になってからも文化的素養を高めることができる宴を催すことであった。
私の知人を毎回ゲストとしてお招きして、その人を知る。ホテルは私のcodeやゲストや季節を鑑みて食、テーブル、
ワインをお客様へ究極におもてなしをする。そして毎回、お客様にはドレスコードをその都度お伝えする。ブラックタイ、
着物などそれぞれに楽しんでいけたらと考えている。
SOMETHING GREATと書かれた軸と清水公照(東大寺元管長)氏が我家で制作した「土仏」を飾った待合
木村ふみさんと大樋年雄のトークショー
木村ふみ氏コーディネートのテーブルと5種類のワインとフランス料理を和食風に食する晩餐会
第1回金沢晩餐会。ゲストは木村ふみさん。古くからの友人であり、
日本の美をいかした食環境を世界へ発信している、
沖縄サミットでの晩餐会は彼女のデザインプロデュースであった。
またハイアット系の数々のホテルの内装やサービスをプロデュースしている。
今回、彼女にお願いしたのはテーブルのトータルコーディネートである。
美しい花に飾られ、ロウソクで照らされた食卓はまるで別世界だった。
SOMETHING GREATと書かれた軸と清水公照(東大寺元管長)氏が我家で制作した
「土仏」を飾った待合いでは食前に日航パティシエによる洋菓子と抹茶をサービスした。
会場に入るとバイオリンの生演奏とイルージョンの食卓がお客様を出迎えた。
そしてホテル側からの挨拶、木村ふみさんと私のトークショー。
5種類のワインとフランス料理を和食風に食する晩餐会であった。
その中の数種類は私の制作した食器も用いられた。
詳細は参加者がきっと大いに社会で語って下さることと思う。
この晩餐会も年二度の開催を企画していくことになっている。招待客の期待度と、
それに答えたホテル側の温かい心配りが融合した時間だったと思う。
シャネル(CHANEL)のアート・プロジェクト「モバイルアート(MOBILE ART)」展に行った。
場所は、東京国立代々木体育館横にある オリンピックプラザ。
イラク出身の建築家ザハ・ハディド(Zaha Hadid)が移動式パビリオンを設計した。
まるでUFOのような300の結合された建築物(パビリオン)は解体して移動が可能で香港、東京、
ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、パリへと巡回していく。
しかし、移動が目的だけの設計ではなく、現代美術家の作品を共存させたセンスに興味が湧いた。
昔、皆で観た映画のようにUFOが地上に舞い降りてきて、地上の我々がSHIPの中を見学するかのような雰囲気があった。
来場者に携帯式のMP3プレーヤーが渡される。
それを一人一人が時間差でパビリオンの中にセッテイングされた20人の“キルティングバッグ”から
インスピレーションを得た作品を見て歩くのだ。
「さあ 行きましょう!付いて来て下さい!」
「人生とは様々なかたちでつくられた歴史のことである」
宇宙人女性のような発音のガイダンスによって歩き始めたあっという間の40分。
私は、アートのもつ可能性は無限であることを認識した。
(写真は読売、毎日、産経、各紙サイトより)
広島県福山市にある中川美術館を訪れた。福山市内から山道をずっと車で走りやっとたどり着いたのだが、
驚いたのはその美術館が存在する森に何か見えない「気」が存在しているということだ。
おそらくそれを感じた方はいられたのではないだろうか。
地名も「熊野町鶯の里」(実際、我々が話していると一緒に鶯が鳴いていた)という。
館長の中川健造氏と奥様に御会いし、ご案内頂いた。そのお二人は、その森の番人?または守られている?
どちらか解らないが不可思議なオーラをお持ちなのだ。
日本との国交が開かれる以前の1960年代からの中国の書画骨董を収集されてこられたものが陳列されているのだが、
油滴天目茶碗、白磁や青磁茶碗、兵馬俑、実に多様なコレクションであった。
中川健造氏に御会いした時に、もうひとつ驚いたことがあった。
風貌や話し方が本当にお世話になった恩人と生き写しなのであった。どこかの映画にあったかもしれない。
中川氏の目にその方が存在していて、私と話してくれた気がした。
私が陶芸家としてデビューしてからずっと応援してくれた方で、いつも励まされてきた。
今も側にいてくれる「気」がするし、私は感謝を忘れることはない。中川氏には何もそのことは語らなかったのだが、
そっとその恩人の存在を感じることができた。
誕生日の翌日にとても新鮮な気持ちになれた。そして恩人を思い起こすことができた。
やはり、あの森に「気」が存在していることをあらためて実感した。
中川館長様 ありがとうございました。
裏千家淡交会東中国地区の研修会に招かれ
昨日から福山に来ている。
裏千家青年部には全国委員会という組織がある
宮本英光氏は全国委員長、私は副委員長
誕生日、宮本氏は昭和33年6月7日
私は、昭和33年6月8日
この二人が裏千家から派遣されて福山にいる
昨日は6月7日
二人がホテルでそれぞれにチェックインした
宮本氏50歳、私は49歳 二人で目を合わせて笑った
様々な行事のあとに地元の裏千家の仲間と居酒屋に行った
丁度、6月8日時刻は0:00 乾杯 嬉しかった。
半百の初めての夜は茶の道の仲間といた
これも「道」という御宗家のお導きだと思う
ありがたい50歳の時間だった
宮本さん、そして福山で共に過ごした茶の仲間
ありがとうございました
まだ一言!
やはり50歳は嬉しくないかも!
新しいことに敏感に!古いことには愛情もって!
でも、新しいもの好きの気持ち悪い親父にならないよう努めよう!!!
映画「しあわせのかおり」試写会が金沢であり、RECEPTRIONも開かれた。
金沢市大野町が撮 影現場となったためでもあるのだが、
石川県や金沢市、そしていくつかの地元企業が参画したなかで完成した映画でもある。
随所に金沢やその近郊がシーンとして写るのだが、私にとっては映画の内容自体にとても共感を抱き、何度も涙してしまった。
中国紹興から帰化した王(ワン)さんが営む片田舎の小さな中華料理屋で、一人の女性が料理を学んでいく物語なのだが、
悪者になる登場人物は一人も存在しない。最近の社会現象からみても心が救われる内容だった。
主演としてその女性を演じるのが中谷美紀さんなのだが、映画の中でほとんど化粧をしていない彼女の料理する姿が度々登場する。
その彼女の振る舞いがとても美しい。素人の私がコメントするのは不可思議なことかもしれないが、
彼女自身が学んでいる裏千家茶道がそうさせている気がした。試写会が終わった時、大勢の方が同じことを感じたとは思う。
しかしその茶道を学ぶ彼女と教授者を知る私には、演技だけではない感慨をもてたことが嬉しかった。
RECEPTRIONでは、主演男優や映画監督によるキャンペーンも行われた。
知人の多くが私に「中谷美紀さんは来なかったんだ」と何故か聞いてきたのだが、回りを見渡すとほとんどが男性だった。
ほとんどが彼女の演技に感動していたのかもしれない。
金沢市は都市の魅力を高めるため、ユネスコの「創造都市ネットワーク」への登録を目指す。
「創造都市ネットワーク」は、伝統的な技術や文化を生かし、
新しい文化を創造する都市の取り組みを促そうとユネスコが創設したもので、
これまでに欧米などの9都市が登録されている。
21日金沢市役所で開かれた工芸や経済界から選出された「金沢創造都市推進委員会」では、
工芸と民俗芸術を表す「クラフト&フォークアート」分野で秋に正式申請することが確認された。
私もその委員として出席させて頂いた。
金沢市の山出市長は、挨拶のなかで「こういう仕事を始めていることが金沢を発信し、ステータスを上げる」と意欲を示された。
また、会議では、工芸を柱とした金沢の特徴について意見が交わされ、
加賀友禅や金沢箔など22の工芸についてその歴史と伝統をユネスコへの創造都市登録に向けたアピールポイントが検討された。
私はそのなかで、金沢の工芸は前田家によって日本の茶道、華道などの「道」(武士道や修行を重ねる美学)が根底にあって
生活文化に溶け込んできたことを強く説明する必要性を意見として発言させて頂いた。
この「金沢創造都市推進委員会」では、これに関連して、10月に世界創造都市フォーラムを開くことも、あわせて確認された。
参照 テレビ金沢NEWS HEADLINE
http://www.tvkanazawa.co.jp/ktknews/nw_detail.php?ev_init=1&nw_id=7253&page=0
5月19日から21日まで裏千家千宗室坐忘斎御家元が金沢に滞在された。
その御家元が20日には白山神社で献茶の儀を務められた。
雨が上がったばかりで天からの光が差し込む
家元以外誰も代わることができない厳かな時間
「神に最も近づくことができる人」それが家元なのかもしれない
子供の頃からよく来た神社なのだが、御蔭で神の存在を感じた
気のせいかもしれない。でも今、何気なく書いた「気」
これを見出せることが大事ではないだろうか
御家元はその「気」というものを金沢の人々に教えてくれたと思う
どうしたら感じられるのだろうか?また伝えられるのだろうか?
それは武士道(茶道、華道)などにある「道に生かされる」ことかもしれない
21日金沢駅を発たれる御家元に、清々しい心で見送りができた。
御家元、ありがとうございました
12日に審査員選考委員会が開かれて、初めて審査員に推挙された。
今、シアトルにいるので、選考委員会に出席していた先生からMAILが届きそのことを知った。
日展で審査員を務めさせて頂くことは大変に責任があることと思う。
そして光栄なことだとも思っている。
毎年、私は微力ながら真剣に日展での作品にメッセージを込めて制作してきたつもりだ。
そして日展で入選作品が並ぶ中で、自分自身の作品を自らが厳しく審査してきたとも思っている。
それは自業自得で、自らが鬱病を患ったかのように落ち込んでしまう。
故に、翌年のために時間はかかるのだが、努力の足りない自らを奮い立たせてきた。
当たり前だが、時代は常に変化している。私自身がそれに敏感でいなければならない。
若くてもすばらしい人格で作品を制作している人が認められるべきだし、
年配者でも地道な努力で人がなかなか気づかない深い作品を制作している方もいる。
そして、そのどちらも理解できる人が品格としてバランスを保てるのだとも思う。
自らもそのような人になれる努力をしていきたいと思う。
今、日展や公募展の在り方に批判する人が評論家も作家もほとんどであり、
私の仲間もそのような考え方の作家が多いのも事実である。
しかし、私はそこに身を委ねさせて頂いている。
批判が多いのは、虚像の世界で自らをアピールする人もいたからかもしれない。
また、社会現象のひとつなのだが、事実でないことや、
歪曲されたことだけが大きく取り上げられてきたことも否めないとも思っている。
そのことで逆に見失われたのは、純粋に立ち向かう人達も大勢いることではないだろうか。
近い未来にこのことが理解される時代が来るとするなら、我々には大きな責任があることになる。
またそれを予言できる行動をとらなければならない。
時代的に私達にはその宿命があるのではないだろうか。
これらのことは若輩だから言えるのかもしれないが、
諸先生や先輩諸兄に御指導を仰ぎながらその志を貫いていきたいと思っている。
第40回日展は10月31日より12月7日まで国立新美術館で開かれる。
今、米国シアトルにいる。
鵬雲斎大宗匠にお伴させて頂いての機会である
前日までは浜松にいた。(個展は13日火曜日まで)
5/11日曜日夕刻、成田からシアトルに向う。
5/11日曜日朝、シアトル着、とても近く感じた
速攻でFAIRMONT HOTELへ
部屋は15時以降なのでホテル内のスポーツジムへ
10分でシャワーを浴びて着物に着替える(利用者から何?視線)
裏千家淡交会シアトル協会の創立37周年記念茶会の茶席へ走る
10:30 茶会が始まる
裏千家鵬雲斎大宗匠、難波在シアトル日本国総領事、
地元名士などの列席の中に私も参席させて頂く。
主茶碗は大樋焼茶碗(父十代長左衛門の40年前の作品)
何と在住の日本人女性会員(金沢出身)の所有のものであった
現地会員の方々のおもてなしの席は二席あった
そして大宗匠主催の昼食会は皆が感謝しての宴となった
その後、今日は自由とのこと
部屋で着替えながらテレビをつける
えっ!シアトルマリナーズ対デトロイトタイガース
時計を見る14:10 SAFECO球場へタクシーで走る
5回裏マリナーズの攻撃中に到着。タフだと思う。
ICHIROも城島も出場していた。感激!感動!
6-3マリナーズ勝利!!!本当に野球が好きだと自分でも思う。
今、書類の整理をしてブログを書いている。
明日はワシントン大学での呈茶、講演、総領事館での夕食
明後日はシアトル美術館での呈茶、講演
鵬雲斎大宗匠の海外布教の恩恵を多大に受けている自分として
鵬雲斎大宗匠のお伴として少しでもお役にたって
そして、学びたいと思う。
明日から感謝の時間を過ごしたいと思っている
大宗匠、お休みなさい。そして、ありがとうございます
シアトルにて
浜松遠鉄百貨店創立20周年を記念した大きな個展
正式には5/8から13日までの会期である。
120坪の特設会場に黒、赤、を基調に和紙やステンレスを用いた自らデザインした個展会場。
5年前、同じ場所でとても盛大に個展を開かせて頂いた。
それは一生のなかでも印象に残る出来事でもあった
5/7夜にRECEPTIONがあった。
今回も私の進化した作品と会場だったと思う。
多くの人が駆けつけて下さった。
最近のニュースが嘘のようなお祭り騒ぎでもあった。
5/10夜に東京へ移動
会期を三日残しているのだが、明日からは米国シアトル
後ろ髪を(無いが!)引かれる思いで会場を後にする
今回も浜松の人々に感動を与えて頂いた
遠鉄百貨店の関わった総ての方々 熱い想いをありがとうございます
裏千家淡交会浜松青年部有志の皆様 茶の縁に感謝です
昨年末、フランスブルゴーニュへ共に旅した仲間達 友情に感動です
有り難いことだと思う。
浜松を離れる新幹線のホーム、私のアシスタントが見送ってくれた
彼は大学の後輩、そして金沢の工房にいて浜松出身
来月には金沢の女性と金沢で結婚する
縁とは不思議なものだ。つながっているんだ!
品川までずっとそのことを考えていたら、何故か涙がでた
浜松の人達!本当にありがとう!縁を大切にします。
金沢日航ホテルに新しいPARTY ROOMができた。光、映像、音を取り込んだ最新の宴ができるスペースである。
ここでどのようなイベントができるのか?
ホテル側のスタッフの方々の問いかけに考えた。
「デザイン茶会」現代アートや現代空間を考察した茶会。
一年に二度のペースで最新のテクノロジーを駆使する。
運びや誘導はホテルサービスのスタッフを中心として行う。
憧れの現代空間に金沢の伝統をどのように導入するか実験でもある。
茶席に座る。光、映像、音楽の「宇宙」掛軸のショータイムが始まる。
やがて静寂がやってくる。スポットライトに照らされた点前の人。
点前が始まり、ホテルスタッフはそれぞれの制服のままでサービス。
点前が終わりスポットで退場する人。
最後は、光、映像、音楽による「地球」掛軸のショータイムで終わる
そして、席を移して加賀フランス料理の懐石。
金沢は昔から茶会が催される機会が多い。伝統を追うだけではいけない。
最新であることで、伝統の深さを学ぶ。
予想外の多くのお客様、そして驚きとお褒めの言葉。
いつも強気のようで弱気の自分。しかし
私が提案する「温新知故」邪道ではないと確信した。
今、朝、3:30
昨晩、日本橋高島屋個展のために、スッタフの方々と共に飾り付けをした。
その後、食事(ワインがぶ飲み)をして眠った。
今、不安で目が覚めた。
何度も繰り返す、この経験
何故に私には学習能力がないのだろう?
全力を尽くして、燃え尽きて、脱力感から奮起する
何があってもやってくる明日。
それも、いつか、感じなくなるのだろう
だから感謝しなければ!
一昨日、今日からの個展のことをMAILで発信した。
世界中から返ってくる友人のMESSAGE
嬉しい。体中にPOWERが湧いてくる
だから眠れない? そうかもしれない!
やって来てくれた今日の為に、また眠ろう
でも、不安! お休みなさい
美術、音楽、両学部の新入生、大学院生などの1000人ぐらいの入学式。
宮田学長曰く
「それぞれがそれぞれの努力によって、得ることができた今日」
そして「目」という象形文字を壇上で筆を用いて書かれた。
それは学生への最高のメッセージ
裏を見抜く「目」影を見抜く「目」の大切さ
自らを語らず、学生へ想いを伝えた学長は、とても素敵だった。
長男の入学式に親が出向くのは当然だろう。
そして、私の父(長左衛門)母、妻の両親も参列してくれた。
長男は祖父母(四人)が出席したことは一生忘れないだろう。
父(長左衛門)は母校に感無量のようだった。
60年以上前、父は戦中にその藝大で学んだのだ。
学友(勅使河原 宏氏、加山 又造氏など)ほとんどは他界してしまった。
30年前、20年前、10年前、人々にはそれぞれの想い出がある。
父は私に相当の期待を抱いて今日まで生きてきたと思う。
高校時代、たった一度だが聞かれたことを覚えている。
「東京藝大は行かないのか?」
すべてに反抗してきた私の答は
「行くわけないだろう!」そして行ける努力もしなかった
寂しかったと思う。でもそれが私の生き方だった。
父(長左衛門)と長男、そして私、三人で並んだ写真を取った。
「それぞれの人生だけど、それぞれの同じ道」
その時、そんな言葉が脳裏で聞こえた。
幸せなことかもしれない。
27日東京から新幹線で岡山—直島。最後はフェリーに乗るので、少し海外旅行的な気持ちになった。
今回の直島視察は金沢市工芸協会の選抜された作家が直島を訪れて、金沢21世紀美術館とタイアップしながら、
次回の工芸フォーラムやコンペの在り方を調査することを目的としている。
団長は中川衛先生(金沢市工芸協会理事長/重要無形文化財保持者)そして私は副理事長を務めさせて頂いているので
中川先生をサポートしながら参加させて頂いた。
金沢21世紀美術館館長である秋元氏は「地中美術館/ベネッセハウス」を立ち上げた中心的な人である。
案内して頂いたのだが、現場を理解しながら新しい夢をチームとして成し遂げていったプロセスが理解できた。
スタッフ皆が秋元氏に尊敬の念を抱きながら接していることが、関係ない私までが嬉しくなってしまった。
作家と建築の関わりがすばらしい。それぞれのスペースがクローズされたなかで独自に存在している。
明暗を意識したなかで演出されている。金沢21世紀美術館はその正反対なのかもしれない。
建築との関わりはわざと持たせていない。解放されたスペース。総てに光が射しかむ、解放された空間。
共通点 同じ頃に開館された。共通する作家達。
金沢で新しいかたちの工芸を発信したい。
美術館と外に出て行くアート(直島の家プロジェックト)のような金沢スタイルのイベントの可能性?
コンペの在り方?
私自身の作家として捉えた考えもあるのだが、金沢から何が発信できるのか?
皆で一緒に深く議論した中から「夢」をまずイメージしていこうと思う。
今回の視察に協力頂いたベネッセ側の直島文化村社長 笹原氏、キュレター 徳田氏をはじめ多くの関係者に深く感謝している。
26日
朝—日本現代工芸美術展開場式出席(東京都美術館)
昼—長男の東京芸大入学手続き。
夜—日本現代工芸美術展表彰式/懇親会(東京会館)
東京都知事賞の表彰を受ける
嬉しいことは長男の入学手続きと私の受賞が同じ日で、東京都美術館と東京芸大は隣合わせという偶然なことであった。
そして私はレッドソックス対アスレチックスの26日の試合のチケットを手に入れることができていたので、
子供達と野球観戦することが楽しみでもあった。ただし長男の合格発表は23日であったために、合格だとお祝い観戦!
不合格だと???とても悩むところだった。そして、晴れてお祝いの観戦となったのだが???
良いことと悪いこと
・ 26日のレッドソックス対アスレチックスは日本での開幕試合として2戦目。
ということはエースが1戦目に投げる25日の試合よりも2戦目に松坂が投げる可能性が高いという大方の予想のなかで、
26日のチケットをなんと5枚も手に入れることができた。日本現代工芸美術展のレセプションがあるのだが途中で退席すれば、
有楽町から東京ドームまで直ぐだから19:00の試合に間に合う!そして知人曰く、
25日の試合より26日目のほうがチケット入手は難しかった!
ところが先般、日本現代工芸美術展で東京都知事賞を受賞させて頂いた。とても基調な賞なので光栄なことだった。
しかし想定外のことが起こってしまった。その日が野球観戦の日なのだ。受賞となればレセプションを途中退席などできるはずはない。
19:00の試合開始だが早くても20:00ぐらいになってしまう。嬉しさの中に嬉しさ半減!
・ 試合数日前になって新聞各社が「レッドソックス、エース故障 25日松坂が開幕投手に!」信じられないことが
もうひとつ起こってしまった。つまり26日のチケットをやっと入手したのに、松 坂は前日の試合に出場するということなのだ。
結局
25日 松坂も岡島も投げた。そして逆転、逆転の好試合。
26日 父親20:00に遅れて登場!日本人選手はだれも出場していない!娘は席を離れて携帯ばかり!
最悪!!!子供達の発言は25日にすればよかったのに!
まあ、でも、日本でもやっと米国にいるような雰囲気で観戦できるようになったことは嬉しかった
(応援に鳴りものは禁止されている)
(逆に日本プロ野球の試合はないと面白くない)
子供と久しぶりにいれたことは何よりだった!!!野球の神様 ありがとう
正午、藝大美術館横で大きな紙が張られた。
建築、14番、あった!!!あった!!!
長男 祐希が合格した瞬間だ。
ちょうど去年の今頃、彼の肩は震えていた。
あれから1年、彼は浪人生として本当に努力をした
建築写生、立体構成、課題を終えるごとにメールが届いた
大丈夫かな?一昨日、昨日、彼の不安が増大していった。
駄目だったら?親としてどう言ってやらなければならないのか?
14番という数字を発見した時、彼は一瞬泣いた。
辛い一年だったと思う。
しかし、いい経験だったと今に解る日が来るに違いない
しばらくして、彼は友達と予備校に戻ってしまった
取り残された父親はずっと14を見ていた。
おめでとう息子。お前の努力は父親もしたことがない。
親ばかだけど褒めてやりたい。
幸せな日をありがとう。
今日、受賞の連絡を受けた。東京都知事賞。
美術作品を創るのが私の仕事である。
今回の受賞はとても光栄であり、何か感無量でもある。
30年前にはこの巡り合わせは想像することもできなかった。
高校、大学と私は東京だった。その時に知り合ったのが石原伸晃さん。
そして、ボストン留学時には同居し、お世話させて頂いた弟、石原宏高さん。
共に今は衆議院議員になられていている。
石原慎太郎氏は彼らの父上であり、今は東京都知事。
長い間の御縁に感謝している。
そして、その方からの賞を受けたことになる。
時は総てを写しているのかもしれない。
自覚ある陶芸家として恥じることのない人生を送りたいと思う。
天に明日に感謝したいと思う。
昨日17:52、名古屋に到着。
ギャラリーで作品の飾り付け、関係者へ作品解説。
そして、鮨処「そえじま」に走った。
そこは拘りの主人と味で有名な寿司店。
場の設定は、兄貴的存在の医師 水上先生だ。
金沢生まれなのだが、今では名古屋在住の名医
お父上も金沢大学の著名な教授だった。
篠田先生は食道癌の外科医、どれだけの人を助けてきただろうか
名古屋に来るごとに参加して下さっている。
妹がロサンゼルスで肺癌と戦っていた頃、アドバイスも頂いた。
そして新しく紹介頂いた細川先生、シャープな医師だった。
会話は弾み、個展の激励も頂いた。
そして個展がはじまった。今、このブログを書いている。
会場はとてもいい雰囲気で、最高の画廊スペースを頂いている
50歳の50の仕事をどう見せれるのか?
今日、いくつかのマスコミから取材も頂いた。
いい個展になるように心したい。
私は12日(水)、15日(土)、16日(日)といるつもりです。
名古屋松坂屋の個展のメッセージ
多分、人生折り返し
どうして生かされてきたのか
ある時が訪れるごとに
いつも想うことがある
自分は何をしているのだろう
そのうち見つかるかもしれない
人生の折り返し。
名古屋松坂屋本店での「50の仕事」展
感謝を申し上げます。そして是非ご高覧下さい
I will be 50, it's true.I don't Know why I don't go The time has come again for me
And I'm feelin' the same way all over again So many times I wonder where I've gone
Maybe I'll find it in the end I will be 50, it's true
「50 Works Exhibition」at Nagoya Matsuzakaya I would like to continue to express my deep gratitude
Please I would like to ask you to come and experience my work.
京都芸術センターで茶会をもたせて頂いた。
かなり以前に裏千家坐忘斎御家元より席主の依頼を受けたこともあり、実は昨年の2月と錯覚してしまった時期があった。
準備は一年前に出来ていたことになるが結局、道具組を含めて何もかもが変わってしまったのではあるが、、、。
場所は京都芸術センター、昔の京都風情の小学校をそのまま残した文化施設である。
数々の芸術家が席主となって明倫茶会が開かれてきている。
私が茶席をもたせて頂く?茶席を私が持たせて頂く?
どうしたらいいのか?自分なりに悩んだのは事実!
京都、古来からの日本文化の発信地である。当然、金沢も大樋焼も父も私も、尊敬とその恩恵に感謝しなければならないルーツが
そこに秘められている。金沢、私が生まれた町。遠い昔、前田家は京都から偉人を招き入れ文化を創造させた。
その一人は仙叟・宗室(裏千家始祖・四代)。前田家に茶道奉行として京都より金沢へ招かれ初代長左衛門(楽家四代一入の弟子)
が同道した。そして大樋焼が生まれ今も続いている。金沢に多くの工芸が今も継承されているのも大きく起因している。
教室を待合に使う。そこは仮想授業の世界!それは寺小屋!
それはバーチャルリアリティな授業。
教室左側には仙叟居士(裏千家四世)の画像を教師用の椅子からPCで映し出し、
その後ろのスクリーンには仙叟までの茶道の歴史や人物を写しだした。
教室中央には西田幾多郎(元京都帝国大学教授—現京都大学・哲学者・石川県出身)
の純粋経験の本を教師用の椅子に飾る。
黒板に書かれた内容は
「平成20年2月 23日 架空幻想寺小屋」
私が茶席をもたせて頂く
茶席を私がもたせて頂く
主観と客観 反省そして自覚
教室右側前田綱紀候(五代加賀藩主)の画像を教師用の椅子からPCで映し出し、
その後ろのスクリーンには仙叟以後の金沢の歴史や人物を写しだした。
そして上の階に皆が向うと茶室となる。時間を越え、人や歴史に感謝をしながら文化の絆を確かめる。
言い換えれば、金沢文化から京都文化に感謝を捧げる茶会をテーマとさせて頂いた。
多くの希望者で抽選となったそうであるが、有り難いことだが参加者にはどのように捉えて頂いたのだろうか?
盟友であった、故伊住政和氏の夫人弘美様をはじめ、私の茶会を応援しようと東京や金沢、
そして京都より駆けつけてくれた友人達に感謝しています。
そして何より裏千家坐忘斎御家元様の深いご理解が、総て私の心の支えでもありました。
このような機会を与えて頂きありがとうございました。
今まで現代アートからの茶会や、裏千家青年部としての茶席などをプロデュースしてきた。
しかし裏千家石川支部より依頼された初釜式での茶席は今までとは別の緊張感があった。
「私が茶席をもたせて頂く」「茶席を私がもたせて頂く」千利休居士からの現代へのメッセージは何なのか?
私なりの解読をしなければならないのだが、私などに解るはずもない。
しかし、間違いなく問われているのは正しい裏千家茶道ルールのなかで真摯な茶会でなければいけないとずっと思い続けてきた。
道具の取り合わせを考えた際、「私が茶席をもつ」と考えると自分が出過ぎてしまう。
「茶席を私がもたせて頂く」と考えれば自分らしさがなくなってしまう。どうすれば良いのか?
結局、両方の考えがはじめて重なり合うことが正しいのかとも思ってしまう。
自分なりの反省を求めていくことが修行なのかもしれない。
今回の茶席で「面白い」「楽しい」「新しい」お褒めの言葉を多く頂いた。
批判は耳にしにくいだろうが自己反省もしていきたいと思っている。
今回で得た課題は「新しさのなかに古典」「古典のなかに新しさ」「自らの場所を探す」我が作家人生のテーマでも成り得る。
支部の先生方のご理解や青年部の協力で茶席、水屋もいい雰囲気となった。
そして何より嬉しかったのは、最後の茶席に遠く裏千家青年部山陰ブロック(島根、鳥取、原田ブロック長)より36名、
北陸信越ブロック(長野、新潟、富山、石川、福井、)からの23名が参席してくれた。
人との出会いに感謝しながら私の一生の想い出となるに違いない。
とても有り難く純粋な経験をさせて頂いた。総てに感謝したい。
昨年あった事
「裏千家茶道」
・坐忘斎御家元から茶名「宗炎」を賜わった。
・青年部全国委員会副委員長、北陸信越ブロック長として活動させて頂いた
・第40回記念青年部北陸信越ブロック会員大会において大宗匠に金沢までお越し頂いた。
「陶芸家として」
・横浜、京都、台湾、ニューヨークと大きな節目の展覧会をさせて頂いた。
・日展では委嘱者となったので作品は基本的に審査対象ではなく出品を委嘱されることになる。
「その他」
・ 住宅デザイン監修を行った
・ マンションのアプローチ、玄関などのデザイン監修を行った
・ フランスブルゴーニュでシュバリエ デュ タートヴァン(ワインの騎士団)となる
・ 由布院ワインナリーより「2007 PARSON OF THE YEAR」の表彰を受ける
今年は6月で50歳となる。半百、ついに大台を迎える。
裏千家の青年部は50歳までの活動なので、時限装置のように、
ひとつひとつの行事や与えられた役目を大切に担当させて頂こうと思っている。
また、昨年は海外での制作、個展などで金沢を離れることが多かった。
今年は金沢での仕事場での制作に重点を置いていこうと思う。
昨年、アイディアとして、あるいはイメージしたことを具現化すること、これは作家としての使命でもある。
これが私の私のためのマニフェスト 頑張ります